2008/01/09

KYとCWに関する考察

リハビリ用の駄文、第2弾ということで……

■仮説

「空気読めよ」と「近頃の若い者は」は似ているのではないか。

■共通性

1. 批判的な言葉である。

2. 人の行動がその対象となる。

3. 根拠が曖昧である。

■構造

1. 対象と自己(発言者)の立場の違いをほのめかすことによって、その意見に客観的な雰囲気を持たせようとしている。

2. 発言者が恣意的に『一般常識』を設定し、それを根拠とする批判である。

■差異性

「近頃の若い者は」は、その言葉の意味から発言者よりも低年齢の者に対して使われる。またノスタルジーのようなニュアンスもあり、若年層が発言するのは不自然である。

それに対して「空気読めよ」は、その場の状況をコンセンサスの根拠として設定し、それを捉える力を批判するという構造を持っている。従って対象者と発言者の関係は問われず、若年層でも自然に使うことができる。

■結論

構造の1で示した「立場の違い」を示す理由として、発言者を曖昧にすることが考えられる。つまり発言者を「対象者とは立場が違う誰か」と設定することにより、匿名性を獲得することができるのだ。それにより発言者は言葉の責任から自由になれる。

しかしながらその「責任からの解放」は自己暗示に過ぎず、「自由」は幻想でしかない。現実に責任はついて回り、この二つの言葉に免罪符としての機能はないのである。

インターネットが普及し、匿名掲示板による無責任な発言が問題となる昨今であるが、「無責任な発言」をする願望は最近発生したものではなく、古より人の中にあったことを認識すべきである。テクノロジーの進化により、その願望が顕在化しただけなのだ。

インターネットはバーチャルな世界ではない。向こう側に生身の人間がいることを我々はよく知っている。従って、必要とされるコミュニケーションスキルは、本質的に変わっていないのである。教育する側はテクノロジーへの対応を急ぐことよりも、在来の方法を洗練することが正道だろう。

■意見

発言の責任を曖昧にする言葉が流行する事態は、憂慮すべきである。この中に時代の病理を感じるのだ。ネットにより、情報を発信する機会は飛躍的に増えている。そんなときに匿名コミュニケーションの心地よさを知ってしまうと、自分の言葉で発信することが怖くなりはしないか。

もしかすると自信を持って語る機会は、以前よりも減少しているのかもしれない。

■対応

親として、子供に自信を持たせることに大きな責任があると思っている。方法は子供と一緒に暮らす中で模索するより他にないが、長所を伸ばすのを見守り、短所は一緒に克服するというのが基本的なスタンスだ。

娘には気になる口癖があった。語尾に「多分」を付け加えるのだ。そのことを指摘すると、娘は「間違っているかもしれないし、後でいろいろ言われるのが嫌だから」と答えた。自信のなさから、語尾に曖昧さを付け加えていたのだ。

その場で止めるように言うと、妻から「多分」は私の口癖でもあることを指摘された。特に意識していなかったが、そういえばよく使っている言葉だ。そこで私も止めることにしたのである。

先ず、娘と一緒に実行可能なやり方を考えた。妻は罰金制度を提案したが「沈黙は金」では本末転倒なので却下。発言する時の気持ちについて考えてみた。

発言するとき
・大抵あわてている。そのため考えがまとまらないうちに話し始めてしまう。
・結論が出る前に発言してしまうので、自分の意見が言葉になっているかどうか
自信がない。
・その後の行動と整合性がとれていないことを指摘されるのが嫌なので、「多分」を付け加える。

これは父子共通の心の動きだ。二人で分析すると早くわかる。そして妻をオブザーバーにして対応策を考えた。

・人の話をよく聞く。
・むやみに会話に割り込まない。
・話す前に一呼吸置く。まとまらないときは、相手に待って貰うこと。
・完璧である必要はない。

縛るためのルールよりも解き放つためのアドバイスが必要だったので、これでいいと思う。

最初のうちはぎこちなかったが、今では大分慣れてきた。
気のせいか、娘は以前よりも自信を持って行動している感じがする。言葉の問題は小さくないと実感した出来事だった。


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